プッチョピアノ

中に二人います

キングオブコント2015

やっと見終わったので、納得した部分と違和感を書いてみる。

世間一般の中で、お笑いファンってどのくらいいるんだろう。

バラエティ番組が好きという人は多い。

ところが、M-1THE MANZAIキングオブコントやR-1を毎年見ているという人はぐっと少なくなる。
劇場に足を運んでいます、という人は物理的な制約も踏まえてさらに激減する。

そして、言ってはいけないんだけど、いくらお笑いが好きだといっても女性のファンって多くてもあんまり良いことがない。


キングオブコント2015はコロコロチキチキペッパーズというダークホースの優勝で幕を閉じた。

様々な意味を込めて、納得した部分はこの一点のみだ。

だって、客席が沸いていたその結果だから。

TVという当たり前で異質なメディアにのる以上、どうしてもコンテンツは大衆迎合していく。
「純粋な『お笑い』としてのコント」を審査し続けるには限界がある。
だからM-1の終了はいいタイミングだった。

 

審査員

キングオブコントは今年大きく舵を切った。
これまで司会として遠ざけていた松本人志を筆頭に、遂に、審査員席を設けた。

これはもうTVの都合としかいいようがない。
去年までのキングオブコントの審査形式ではコンテンツが持たなくなっていたんだから。

では、審査員としてあの面々はどうだったんだろう。
はっきり言って、まともに審査員として機能していたのはバナナマン 設楽しかいなかった。
強いてあげればさまぁ~ず 大竹か。

テコ入れとして審査員席を設けたという点についてはもう何も言えない。
でもだからこそ、審査員にはしっかり審査してほしかった。
つまり、みんな各々の採点基準を持って審査に臨んで欲しかった。

審査員として選ばれた面々としては文句ない。
ここにヒロミや志村けんなんかがいればもう完全に見る気を失っていた。

バナナマン、さまぁ~ず、松本人志がコントそのものをどう審査するのか。
ただこれだけで僕なら飯が三杯食える。それぐらいテコ入れとしては成功した面々だっただろう。
にも関わらず、一組目の藤崎マーケットのコントが終了した直後から、「難しい」を連発していた。
これはもはや、後ろにいる客席の笑い声を審査基準の一つとする、という宣言だ。

僕はこの流れを見た時、あぁTVとして審査するんだな、と確信した。当然だけど。

賞レースである以上、相対的な評価は仕方なく、だからこそ一組目に登場する演者の不幸も語られ続けてきた。
ではなぜ一組目の審査から「難しい」と言ってしまうのだろう。
自分の評価と客席の笑い声が乖離しているという危惧への予防線だと邪推した僕は、審査員に失望した。

「難しい」宣言から始まった審査はその後もグダグダだった。
5人の中で一番点数が高いという理由で浜田が審査員それぞれにコメントを求めているにも関わらず、歯切れの悪い評価コメントばかりだった。
生放送だし、まだレースの途中だし、というコメントの難しさは理解できる。
それでも、なぜその点数としたのかというプロセスが聞きたかった。
確かにテンポやインパクトの順番といったことへの言及はあったが、二言目には「(客席が)ウケてなかった」という旨の発言をしていた。

客席の笑い声がなかったからなんなのだ。
去年まで100人の芸人が座っていた場所には、女性がほとんどの素人100人が座っているのだ。
笑いの量なんてなんの基準にもならない。女性の笑い声がこだまするコントが「いいコント」ならば審査員席は必要ない。
審査基準は笑いの量です、と明記しておけばいいじゃないか。

お笑いという抽象的なものを審査するのだから、自分勝手でも明確なものさしを持ち寄ってほしい。
設定の妙、テンポ、意外性、フレーズ、裏切らないという裏切りなど、それぞれの基準に各々重み付けをおこなった上で鑑賞しなければ、TVの前の視聴者となんら変わらない。
笑いの量に迎合するのなら、自称お笑い評論家の意見を聞いた方がまだマシだ。

去年までのキングオブコントは、その点も見応えがあった。
ダウンタウンの振りにどう応えるかという大喜利の体を成していた部分もあったが、しかし一方で、自分たちを越えていった芸人がキングオブコントという舞台でどんなネタを披露するのか、という敗戦芸人たちの期待、嫉妬、羨望が渦巻くコメントは面白かった。

審査員席を設けた意味、審査員として座った覚悟が僕には読み取れなかった。

ただし、好意的に解釈するならば、やはり審査員それぞれがお笑いという文化を愛しているんだと思う。
バナナマン 日村なんてのはその典型で、後輩芸人たちがコントに汗水たらしてバカみたいに一喜一憂している姿が好きなんだろう。
さまぁ~ず 三村も、お笑いに対して舐めた態度をとる後輩に説教するほどに、お笑いに対して熱い想いを持っている。
だから否定的な意見を言ってしまってその芸人の道を閉ざしたくない。そんな思いにかられていたのかもしれない。

審査は非情にならなければ到底できない作業だ。
オリンピックですら、あれだけ形式的にしていても審査種目は揉めてしまう。

後輩芸人たちの意気込みが、過去の自分と重なってしまう現役バリバリの審査員たちには、やはり「難しい」ものだったんだろうか。
良くも悪くもあくまでドライに審査員長を務めていた島田紳助は稀有な存在だった。帰ってくる必要はないけど。

来年も審査員席を設けるならば、審査員としての資質を十分に有した、または審査する覚悟を持った人に座ってほしい。
コメントは最後にまとめて、でもいい。

僕は、審査員のお笑いに対する審美眼を見たい。

 

制作者

審査員に対しては好意的に解釈できるところもあるものの、制作サイドは全く理解できない。

まず、審査員席のそれぞれに仕切りを設けていた点だ。半透明の板が目線よりも低い位置にあった。
仕切りなんて必要か? あれはなんのために置かれていたんだ? 目隠しのためか?

これから審査しようとする人間が、周りの審査員の点数を見て自分の点数を決めるとでも思っているのか。
もしそうであるならば、審査員はバカにされている。同調して似た点数をつける程度だと思われていることになる。
ところが、のぞき込もうと思えば簡単にのぞき込める程度の仕切りだ。
事実、バナナマン 日村が94点を4点として決定ボタンを押してしまったことをさまぁ~ず 三村が指摘していた。
隣の審査員の点数は見えていたはずだ。
カンニング防止としても役に立たない仕切りを設けた意図はどこにあったんだろう。
M-1にはなかったはずだ。

画角や機器の都合上必要だったといわれればただの視聴者としてはなにも言えないが、僕には存在理由がわからなかった。


また、明らかに意図的だった松本人志の点数の表示速度だ。
他4人の点数をテンポ良く見せたあと、明らかに一拍置いて松本人志の点数を表示していた。
これはなぜか?
もちろんそれだけ松本人志の点数を世間が気にしているからだろう。少なくとも制作サイドはそう考えているのだろう。

審査員の中に松本人志がいるというだけで後輩芸人たちは絶対にそのコメントに注目する。
M-1においても、松本人志がどうコメントするかが気になると吐露した芸人がいた。
それほどお笑いにとって松本人志という存在が大きいことはわかる。
ただしこれは賞レースだ。松本人志が単独で選ぶ好き嫌いコンテストではない。
だからこそ松本人志の点数と他の審査員の点数は同じ価値だし、必ず松本人志のコメントが聞けるわけではない。

松本自身も苦言を呈していたが、一拍置いて表示させるにはあまりに一貫性がない。
意味のない間なのだ。

とはいえ、そんな松本人志から「うまいんだね」と評してもらえたジャングルポケット おたけは嬉しかっただろうなぁ。
なんだか卑怯だけど、ジャングルポケットのコントを初めてじっくり見た僕もそう感じた。だっておたけは結構やばいヤツという認識しかなかったから。。。


最後に、これはもう言ってもキリがないが、カメラワークだ。
別にキングオブコントに限ったことではないんだけど、とにかく芸人を殺すようなカメラワークは、このような場ではしてほしくない。
スイッチャーとしての意図があるのだろうけど、コントの途中に審査員の顔は必要ないし、芸人が生みだしたここぞというフレーズを映しきれないようなスイッチングなら、いっそ定点カメラの方がマシだと思う。

通常のバラエティ番組のようにテロップを入れないことは良心的だけど(そもそも生放送だけど)、ならば芸をちゃんと伝えてほしい。

 

コント

それぞれのコントについて、僕なりのコメントをするには余白が足りないのでこの辺で。
ただ、勝手なことをいわせてもらうと、音ネタ含むリズムネタとメタネタは正直、好きじゃないです。はい。

 


 

来年は腹を抱えて笑えるようなコントが見たいなぁ。